うめちゃんからの手紙 2018 No.046 永遠にたどり着けない街の思い出。

うめちゃんからの手紙 2018 No.046

うめちゃんとバイトまでの道中での会話が好きなはるちゃん。

うめちゃんからの手紙 2018 No.046

私には子供の頃から頻繁に繰り返し見る夢があります。
一般的に夢というのは日中に体験したこと、見聞きした情報などを脳内で整理するために必要な脳の活動と考えられているそうです。
この説にはある程度の説得力を私自身の実体験を伴って感じています。

私の場合、見る夢の半数以上がどこかの街を歩いているパターンが多いようです。
すべての夢に出てくる街は現実には存在しない街で、御徒町のようでもあり、錦市場のようでもあり、またロンドンにあるキャムデンタウンのような街だったりします。
一見共通項が無いようですが、それぞれに賑わいや猥雑さ混雑など人の活気がある生きている街という共通点があり、それらの街の個性だけをつまみ食いしたような街を私は毎回歩きます。
私の夢の大半がマッシュアップされた架空の街をひたすら歩き、毎回探していたお菓子や本、カセットテープなどの情報が詰まったものを買いにいく、もしくは回収しにいくことで終わりを迎えるパターンが多いのです。

ある時期を境にお菓子を買いにいくパターンの夢を見る事が減った気がします。
お菓子を買いにいくパターンの夢を見ていた終末期にはお菓子ではなく、結婚式や祝い事の引き出物でよく見られた砂糖で作られた祝鯛や花に変容していきました。
砂糖を模した鯛はただの砂糖の塊で直接食べられるものでもなく、子供心にもがっかりする”偽物のお菓子”感のようなものがあったと思うのですが、なぜ繰り返し祝鯛や砂糖で作られた花が出てくるようになったのかはわかりません。
それらが夢に出てくる以前は決まってグリコやビスコのような一般的に流通するお菓子のことが多かったのです。

私なりに理由を考えてみたのですが答えは出ませんでした。
ただ子供の頃より現実世界で見聞きする情報が増え世界が広がった事で、夢の中でもゴールの設定がなくなり、常に続編があるように導く終わり方の夢が増えてきたのかもしれません。
子供の頃と見ている夢の屋台骨のようなものは変わっておらず、今朝見た夢でも私はひたすら歩いて歩いて一晩明かしたのですが、最近はゴールがなくなってしまった事で歩いている最中に楽しみの重きを置くようになっている気がします。
全くゴールがなくなったという言い方も語弊があるかもしれません。
今現在でもお菓子を買いにいく夢も見ますし、知らない架空の街で迷子になる夢も相変わらず見ます。
子供の頃と変わった点はもう一つあり、夢の後半で手に入れたものを今度は誰かに持っていかなければいけないというパターンの終わり方が増えてきた事です。
本を手に入れる夢であればその内容を読み、友達や周りの人に内容を伝えなければいけないから本を読もうと本を開くところで目が醒めるのです。

大人になるにつれ私自身の夢へのある種の失望のようなものも感じる事が出てきました。
それは夢の中で私自身の夢も演出がされるようになってきたと意識する事があるのです。
夢の中の私が重要と捉えるものだけがPleasantville Effectのように着色され、他の物が色を失っているのです。
それ以外のパターンでも自分が興味のあるものだけにピントが来ていて、極端に被写界深度が浅くなり他のものにピントが合っていないという事もよくあります。

貪欲に情報を取り込もうという姿勢が以前の私にはあったのに最近の私には得ようとする情報を必要以上に取捨選択してしまっているのではないか?選り好みを始めた事で好奇心を失っていってはしないか?と夢の中の私は現実世界の私の本年の本音を投影した姿では無いかと自分自身の姿勢を危惧しています。

私の父も私と似た夢をよく見るそうです。
父の場合は本を巨大な本棚になおしたり、絵を壁に飾る作業をする夢をよく見るのだそうです。
父は抜群の記憶力を持っているのですが、それには特徴があって文字にされた情報や絵のようなもの、自分が目で見たものであれば無限に記憶できるそうですが、視覚以外で得た情報の記憶は人並みか劣るようです。
父は先週の母との会話の内容は忘れてしまいますが、母が10年以上前に出した携帯のメールの内容は一字一句完璧に覚えているのです。
美術館や図書館のようなものが父の脳内にはあり、現実の美術館や図書館に収蔵できないものは父の脳内でも記憶できないということです。

私の場合は街を歩く事なのだとおもいます。
人は一晩で3〜5つ夢を見るという話を聞いた事があります。
私もきっとそれくらいの数の夢を見ていると思うのですが”実用的”な街を歩く夢しか起きた時には覚えていません。
歩く夢の記憶は長く頭に残り、日中の私の記憶術としても活躍してくれています。
父の図書館や美術館が私の場合は街歩きなのです。

この記憶術には欠点があって、夢で見る街を現実世界でも見た見たいという実現不可能な”夢”を抱いてしまう事です。
夢の中で私が活動する街は客観的に見ても私が記憶にとどめておきたいという情報を整理するために構築された街なわけで、楽しい思い出や有益な記憶などが詰まっています。
現実にはデブリのような、過剰なまでのディテールもあり、嫌な事もたくさんあり情報があふれています。
夢の中ではそれらがこそぎ落とされてある種頭を休めるサンクチュアリーでもあるのです。

たどり着けない街。
でも現実の街の猥雑さ煩雑さ、捨てたものじゃ無いのです。
少なくとも写真に撮るにはそんな現実の街の方が美しかったりします。

はるちゃんと歩いてアルバイトに向かい、今日も楽しい会話を続けて日々のページを増やしていこうと思います。

私は歩く事で記憶していくというお話でした。

うめこ


今日の一枚

賢そうな顔の柴犬。

LEICA M10 , APO-SUMMICRON-M F2/50mm ASPH.


今日の一曲

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デューク・エイセス-遠くへ行きたい 


今日の一冊

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