うめちゃんからの手紙 2018 No.026 Neil Youngと王翰さんの涼州詞。

うめちゃんからの手紙 2018 No.026

爪をとぐうめちゃん。

うめちゃんからの手紙 2018 No.026

去年の今頃王翰さんの涼州詞を学校の授業で習いました。
その半年後くらいに月の沙漠という有名な童謡と涼州詞の世界観を私なりに対比し日常と非日常、死生観、戦争と病について考えてみた小論文を書きました。
今日その小論文がとてもよく書けていたという事で学校で表彰されました。
ちょっとだけ得意な気分でした。
素直にとても嬉しかったのですが、私の尺度で最も嬉しかったのは私の名前がきちんと良い事で認知してもらえた事です。
恥ずかしい事に高校2年生の現時点でもクラスメイトの何人かは私の名前を覚えてくれていません。

話を少し戻します。
私は歌や詩には出てくる人物が旅をしていたり、俗に言うセンチメンタルジャーニーの情景を美しく描いたものに惹かれます。
辛い事からの逃避、新しい生活に向けてのスタート。
涼州詞と月の沙漠の小論文を書いている時期、私はニールヤングのOut on the weekendという曲をよく聴いていました。
時々この曲を思い出してはこの歌の歌詞に出てくる人物についてよく考えます。
私は田舎の母を亡くした息子が実家に戻り家を片付け普段仕事をしている都会のLAへトラックで向かう姿を想像してしまいます。
歌詞の前半に出てくるFrom her big brass bed.(彼女の大きな真鍮で出来たベッド)という部分でどうしても田舎の家にある古いベッドを想像してしまうからかもしれません。
真鍮のベッドは重く長い間据え付けられている古い家を思い浮かべさせ、若者の住むアパートではない気がします。
一番最後の句にあたる部分でTrying to make it pay.(償おうとしている)という歌詞があり、親孝行を母親に十分にしてあげる事ができなかった息子の悔しい心情に私には聞こえるのです。
真鍮のベッドが歌詞に出てくる前後にベッドの周りには写真が貼られていてというフレーズも出てきて、それがあたかも晩年の多くをベッドで過ごすようになった母に息子が旅した各地で撮った景色の写真なのではないだろうかと私は想像を膨らませます。
失恋の歌を例に挙げるとGotyeのSomebody That I Used to Knowという曲を私は思い浮かべる事があるのですが、あの曲はもう少し具体的に失恋の後にレコードを友人に取りに来させたり携帯電話の番号を変更した元カノの姿が描かれていて、もう少し世俗的でリアリティもあった印象でした。

GotyeのSomebody That I Used to KnowとNeil YoungのOut on the weekendの両方が失恋の歌だったと仮定してみても両者には大きな違いがあり、それは前者では女性が去っていく姿が描かれそれが繰り返される事を匂わせる少し残念な男を描いていて、後者は未練を感じながらも環境を変えようと現状から飛び出す男の姿が描かれています。
失恋の悲しみはなんとなく非日常な気もしてしまいますし、それが日常だったら嫌だという気持ちもあるのですが、繰り返される失恋はもうそれは日常で常習犯です。
Neil YoungのOut on the weekendの人物は日常だったものが非日常に変わってしまい、その悲しさを引きづりながらも新しい日常を始めるための旅に出ているのです。
”旅”も非日常と結びつけられがちな言葉ですが新生活がやがて毎日の生活になるように、日常の入り口を作るきっかけのための行動に過ぎずLAに向かう男の旅は非日常とは呼べない気がします。

涼州詞に話を戻します。
Neil Youngと違いこの唐詩の中では馬が非日常である戦場を意識させるために使われています。
ここが私が面白いなと思ったところです。
馬の解釈が時代背景や国によって違うのが面白いのです。
Neil Youngは曲の中でPick Upと歌っていて、それはピックアップトラックを指しているのですが、現代のアメリカで馬といえばムスタングという馬のエンブレムが飾られたムスタングというスポーツカーやレジャーとしての乗馬を思い浮かべるのではないでしょうか。
馬はどちらかといえばどの時代でもお金がかかる生き物で、餌の世話をしたりする側と馬を利用するために乗る側では身分の違いがある乗り物です。

Neil Youngがただ車と言わずピックアップと書いたところ、そして王翰が涼州詞でわざわざ馬上と書いたところも面白いです。
馬に乗って戦争に行く、そして外国のぶどう酒が飲める身分の男が酒で刹那的な快楽に浸る姿。
戦場なのに馬の上、戦地で外国の酒を飲む浮世とは少し隔たりのある男の姿。
ピックアップでLAに向かう男の姿がOut on the weekendの序盤では描写されていますが、そのフレーズの後で”try to fix up”と続いています。新天地で生活を立て直そうという意味だとは思うのですが、直訳的に”修理してみようと思う”と受け取ることもでき、出てくる男が自分でトラックを修理して乗り続けていく姿も浮かびます。
LAの都会に移り住んでもアメリカの田舎で乗られているようなピックアップを乗り続ける姿が、田舎の日常が都会の非日常になる様子、それでも自分の故郷の事を忘れないためのアイデンティティーを守っていくための乗り物の姿がそこにはあるようにも私にはうつるのでした。

時代が涼州詞とは違いモータリゼーション以降のアメリカでは馬は戦争とも縁遠く、競馬や、スポーツカーのシンボル、速さや力強さを表す記号に変化を遂げていてます。
歴史的に見ればアメリカも開拓時代やネイティヴアメリカンの方たちへの凄惨な歴史と馬は切って話せないのですが…
現代のアメリカ軍の圧倒的な火力が馬を騎馬隊などの戦争のイメージからどうしても遠ざけてしまいます。
涼州詞に出てくる馬上の男はある程度の身分の兵士と私は解釈しています。
身分があり馬で戦地に向かう事ができ外国の酒で気を紛らわす事ができても死からは逃れられない、戦争という国が作り出した都合の下、死から逃れられないという悲哀がかかれているのです。

今日も私は空飛ぶほうきと徒歩でアルバイトに向かいコーヒーを人に飲んでもらうためにいれるのです。
それが今の私の日常を作るものです。

うめこ


今日の一枚

パノラマ

LEICA M10 , APO-SUMMICRON-M F2/50mm ASPH.

50mmのレンズをつけたカメラで撮影しPhothopでパノラマ合成してみました。


今日の一曲

Five years – [The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars] – David Bowie

David Bowie – Five Years


今日の一冊

好きな本。

Copyrighted Image

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシー利用規約が適用されます。