うめちゃんからの手紙 2018 No.093 知らないのも危険だが、知りすぎるのも危険。

うめちゃんからの手紙 2018 No.093

はるちゃんのためにミモザの前でポーズをとるうめちゃん。

うめちゃんからの手紙 2018 No.093

今日は午前中に絵画教室に行き、欲張りなことにレンタル暗室にも行ってきました。
エセ美大生風的日曜日でした。

絵画教室で今日は久しぶりに裸婦デッサンがありました。
裸婦デッサンのモデルさんが「ポーズとってる間退屈しないように自分のiPhoneには行っている音楽を流しておいてほしい」と先生に告げ、教室のスピーカーから流れてきたのは某有名深夜ラジオの録音でした。

裸婦デッサンは巌流島の決闘ばりに私には集中力を必要とし、真剣に向き合わなけれいけない時間です。
ズバリ私はめちゃくちゃ下手なので頑張らなければいけないのですが、ラジオ番組の録音ばかりに意識がいってしまい集中できませんでした。
周りの他の生徒さんは一顧だにせず、慣れた様子で黙々と描いていました。

一番上手になりたいのはズバリ裸婦デッサンなのですが、一番苦手です。
通うようになって分かったのは裸婦デッサンは同じ状況が二度と発生しない即興的緊張感があり、影や肉付き、本当に集中して気を配らなければいけない事が多く、奥が深いなと毎回圧倒されます。
花瓶やバナナ、リンゴなどが置かれたスツールを描くことも大変なのですが、本当は良くないのしょうがある程度予想と知識として持っているステロタイプ的なリンゴ像やオブジェクトへの記憶があり裸婦デッサンよりは幾分肩の力を抜いて描ける気がします。
今日はヒロシも教室に来ていて裸婦デッサンも一緒に描いていたのですが、本当にやつは上手です。
教室に通い始めた最初の頃に先生がデッサンも彫刻も基本は一緒で粘土をこねながら形を作っていくようなイメージを持って描くといいよとアドバイスをいただいたことがあるのですが、ヒロシの描き方もまさにそれを実践しているといった感じです。
彫刻家の方が立像を作る際に心棒作りをしっかりとした後に粘土という肉を盛っていくような、そんな描き方です。
ヒロシの初動は潔く、しっかりとモデルさんの形のラインを捉え心棒として紙の上に描き、そのあと陰影や肉付きとそのやらかさ加減、重力に引っ張られる肉や筋肉の張り、それらを支える骨がしっかりと見えてくるのです。
私に比べ圧倒的な観察眼とそのための集中力。
もしかしたら日々死線をくぐりぬけて生きている野生動物たちが絵を描くことができたらすごく上手かもしれませんね。
ほんの些細な違和感や変化を感じ取れる力、そして全体を冷静に見つめる力がなければ大自然では生きていけませんものね。

ここしばらくよく引用されるずっとスーザン・ソンタグの有名な写真論について考えていました

洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、なにを目撃する権利があるのかについての観念を変えたり、広げたりしている…写真はひとつの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理であるということだ…写真を収集するということは世界を収集することである。

写真を撮ること、人を描く事って本当に難しいなと思うのです。
一線を超えてしまうとモデルをオブジェクトとして捉え、ものとして扱い、倫理観を失いながら彼女や彼らを消費する側に立っている事を忘れ、より過激に、よりスピードを増しカオスのように取り返しがつかないところに行ってしまうような…そんな危険もはらんでいる気がします。
かといって被写体を神格化したり、ミューズのように扱うのも違う気がします。

私は写真を撮ったり絵を描く事を通じて、人が自分と違う事を尊重し、時にそこに愛を見出したり、価値観の差異を楽しんだり、そんなチグハグだけれどカタコト同士の会話みたいな、お互いの照れ、向き合っている雰囲気、もしくは単純にモデルと作家の仲睦まじさが伝われば私はいいなと思っています。
もしかしたら写真表現が厳しい局面に今向かっているかもしれないと、アホの私でも考える事があります。
女性性を極端に誇張しているもの、縛りつけオブジェクトとして扱っているもの、人格を抜いてしまい曲線美や艶やかさのみに美意識が宿っているかのように観察者に錯覚させてしまうもの…
突き詰めていけばナショナルジオグラフィック誌のような雑誌に使われる貧困者、少数部族の少女たち、戦争被害者、様々な弱者を撮影した写真…これらの写真を撮った写真家はすべての方に掲載許可を取っているのでしょうか?
フェアな取材協力費を払っているのでしょうか、そして彼らは撮影された事で生活が変わったのだろうか?もしくは悪化してしまってはいないか…なにより私たちは彼らを勝手に奇矯なものとして自分たちが持つ倫理観や価値観が絶対という勝手な立場から彼らをエンターテイメントとして消費していないか?
もしかしたらルポタージュやジャーナリズムとしての必要性があり、より克明により悲惨さをわかりやすく伝えるためにそのように変化を遂げていったのかもしれません、けれど忘れてはいけないのが同じ人間だという事、彼らにも生活があり、人格があり、魂がある。
私たちには目を背ける事なく知る責任があるかもしれません、でも知り学ぶだけではダメだと思うのです。
それから先に何かアクションを起こせるか、ただそれ以上にセンセーショナルで刺激的な他の対象を渇望しブラウズしていくだけなのか。

例えると…ライオンの力強さを写真や絵に収めたいと思い近寄る必要が出た時に、ライオンを麻酔銃で射止め眠らせ近づいて観察してはダメだと思うのです。
そのままの雄大さ、野生の持つ緊張感のようなものに畏怖の念を持つのは自然な事だと思うのです、それがライオンなのだから。麻酔銃や弱らせて撮っているのは…畏怖の念をごまかしているのです。
女性の美しさや力強さ、そのモデルの方が持つ個性や人格を作品にしようと思ったときに卑怯な事をしてはいけないと思うのです。
マラルメの言葉を引用しソンタグは“Mallarme said that everything in the world exists in order to end in a book. Today everything exists to end in a photograph.”、「マラルメは世界中のあらゆるものは本になり終えるために存在していると言いましたが、今日では全てのものが写真として終えるために存在しているのです。」と言っています。

私は怖いなと思います。
そしてSNSなどでこのような麻薬中毒者のような写真に対する渇望やいいね中毒者は増えていくように思えます。

女性を知ろうとする事はいい事ですが、女性を思い通りにしようとする事は間違っているのです。
彼女たちは彼女たち自身のために存在しているのであって、写真になるために存在しているモノではないのです。
簡単な事なように思えますが、簡単な事ではないのが実情のようです。

とは言え私自身も自分ができない事を間接的にお笑い芸人にやらせそれを笑っている、視聴者です。
お笑いも突き詰めていけば縦社会でパワハラのようなものや他者からの圧力のようなもの、様々なものが渦巻いている世界だと思います。
お笑いを例に出しましたが日常における消費であっても、どこかでは生産者を搾取しているのです、それが劣悪な環境で携帯を作っている工員さんたちであったり、コーヒー農家さんであったり。
資本主義でお金を持っている側に立ちお金が少ない側にお金を使ってパワハラをしているとも言えるのです。

私が中学の時に一人の体育教師が女子生徒にセクハラでは済まされない、立場を利用した卑劣な行為をしていたのですが、それに対し正義感の強い男子生徒が立ち上がりホームルームの時間に先生に立ち向かった事がありました。
ところが、その生徒は外に呼び出され先生に明らかに殴られている様子でした、女性の副担任がいたにもかかわらずです。
その翌日からその男子生徒はクラスメート達から無視され最終的には学校に来なくなってしまいました。
被害にあっていた女子生徒や被害にあっていた他の生徒達もその男子を無視していたのです。
異常な空間でした。

自分が被害者になる可能性もあればもちろん加害者になっている事もあるのです。
他人への想像力の欠如が叫ばれていますが、想像力があるがゆえに人をいじめたり、人の嫌がる事を次から次に思いつき痛めつけている姿を集団で笑うような病理も確かに存在しています。

本当に難しいなと思います。
今日は支離滅裂になってしまいました。

また明日。

うめこ


今日の一枚

リバプールの街。

Kiev 4am /Jupitar3 50mmF1.5 / AGFA VISTA PLUS 200


今日の一曲

Cyndi Lauper – Time After Time (Official HD Video)

Cyndi Lauper – Time After Time


今日の一冊

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