うめちゃんからの手紙 2017 No.150
私の親しい人達に不運な事が起こり、私も凄く悲しい気持ちになった1日でした。
私のアルバイト先のカフェのマスターがスケートボードに乗った酔っ払いの女子大生にぶつかられ、転倒し怪我をしてしまいました。凄く腹がたつ事に、その酔っ払った女子高生は謝らずに笑いながら「じじぃ邪魔だ!」と悪態をついて逃げてしまったそうなのです。
聞いていてとても悲しい気持ちになりました。
もう1つは私の親しい友人が仕事の後、道を歩いていた時に知らない男性に腕を掴まれ女性としてすごく不愉快な言葉を浴びせられたそうで、すごく怖いという気持ちと、腹立たしさ、悔しさがこみ上げてきました。
幸い友人は怪我などはなく済みましたが、本当に怖かったでしょうし、とても悔しい思いをしたと思います。
マスターも大きい怪我ではないとおっしゃっているのですが、それでも私が目視で怪我をした箇所がわかるくらいには患部が腫れていました。
私が大好きな人たちが傷つけられることは本当に悲しいです。
マスターは一日中立ち仕事なので足の怪我は辛く、友達の女性も家の近くでの出来事なので本当に怖い気持ちになったと思います。
想像力って大事だと思うのです。
ーー酔っ払って街中でスケートボードに乗る事がどれだけ危険かということ、そしてもしマスターにぶつからずそのまま道路に飛び出してしまっていたら自分が事故にあっていたかもしれないということがなぜ思い浮かばないのか。小さい子供や妊婦さん、お年寄りにぶつかっていたらと思うと怖いです。
ーー自分が女性だったら知らない男性にいきなり腕を掴まれ卑猥な言葉を浴びせられたり追いかけられるという事がどれだけ怖くて不安で外を歩くのも怖くなってしまうのかを、考えてみて欲しいのです。
嫌な事ほど頭にどうしてもこびりついてしまい、本当に長いこと苦しめられてしまうものなのです。その変態野郎にとっては一瞬の悪戯のような考えの足らない行為でも、女性側からすればずっと苦しめられる辛い出来事なのです。
私が小さい頃、友達と遊ぶ約束が夏休みにあり、その子と遊ぶのがすごく楽しみで、父と母の休みの日とかぶっていたので家族旅行に行けるにもかかわらずその子との約束を優先したことがあります。
でも約束の当日、その子は待ち合わせ場所には来ませんでした。
夏休み明けに聞いてみたら、「母親に塾があるから遊んじゃダメだと言われて行けなかった」と笑いながら私に謝りました。
本当に悔しくて家に帰って泣いてしまったことを今でも覚えてしまっています。
その子にとっては母親の言うことは絶対だったのだと思います、けれどもっと早くに教えて欲しかったなぁとか、両親とどこかに遊びに行けたのになぁとか、あぁだったらこうだったらと色々な事が頭を巡ってしまい悔しさとパニックの入り混じったような感情でしばらく何もできなくなってしまうほど落ち込んだことを覚えています。
ふと私も誰かをひどく傷つけてきてはいないだろうか、人に不快な思いをさせていないかという大きな不安に飲み込まれてしまいそうになることもあります。
私が尊敬している大好きな猫、キンちゃんの言葉をここに書き記しておきたいと思います。
「私は自分は善人だって考え方嫌いなのね。無意識に自分は正しい行いをしていて、自分自身の努力で今の自分があるっていう勘違いや努力が報われてたから自分の地位があるとかって自惚れを誰でもしがちだと思う。自分だけが、自分は正しいのにって考え方。無意識に誰でも優劣をつけてしまっているところがあって。その優劣で切り捨てられてしまうところに、他の人や生き物からみたら許せない行為っていくらでもあると思うの。人間って正しい行いをしていれば輪廻転生でまた人間に生まれ変われるみたいな考え方があるけれど、人間だけだよ自分たちが一番優れているからまた人間に生まれたいなんて思っているの。猫だってまた猫に生まれたいって思ってるのもいるけれど。」
これは私やキンちゃんだけが考える事ではなく、みんなが考え悩み苦しめられる事なのだとも思います。
嫌な思いをしてやっと人に優しくなれるという要素も認めなくてはいけません。
「人はパンのみにて生くるにあらず」というキリスト教の考えや、親鸞聖人の「煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを 憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。」という教えの意味についても考える事があります。
キリスト教の考えには自分自身の努力や肉体的な事象だけで生きているのではなく、神の御霊や言葉に包まれ生きているという事を常に忘れてはいけないという意味があります。
仏教でも、歎異抄という聖教で書かれていた親鸞聖人の教えの意訳にも近いものがあります。
自分は人より優れた人間で、自分は善人だから極楽にいける事は間違いないという考えを持つ事に異を唱えています。人を救えるのは自分自身ではなく、自分は悟りを開ける行いをしてきたという考え自体が自己欺瞞、そして自惚れにすぎないという事。本願他力の本来の意は、絶える事のない光、命、愛、全てを持った阿弥陀様だけが皆を救う事ができるという考え方です。
すごく雑にとらえてしまえば、善悪など人間本位で勝手に決めていいものでもなく、最終的にすべての人は救われるのだから自分だけが他人より正しく生きているという考えを捨てなさいとも受け取る事ができます。
私自身は特定の宗教を信仰しているわけではありません。
ですが、猫のキンちゃん、キリスト教の考え、親鸞上人の言葉、すべてに自分だけが正しいと思ってわいけないという自惚れに対する戒めが込められている気がします。
自分の気持ちに丁寧に、周りの人の心に丁寧に接していきたいと思いました。
私なりに一生懸命考えてみました。
うめこ
画伯のつぶやき
しんどい事がどどどと重なり、ちょっぴ心に堪えた週の真ん中です。
本を読んだり、コーヒーを飲んだり。
いつもと同じ事をして、いつもの気持ちに戻れますように。