うめちゃんからの手紙 2019 No.154 許さない壊さないという罪悪。

うめちゃんからの手紙 2019 No.154

家族で遊びに出かけていた子供の頃のうめちゃんと猪十郎さんの図。

うめちゃんからの手紙 2019 No.154

私が十代の前半頃に家族でよく京劇ドリームボールにボーリングに通っていた思い出があります。
昨日彼女とデートに行ってきたヒロシが久しぶりにボーリングに行ってきたそうで、めちゃくちゃ楽しかったと大興奮でボーリングを趣味にしようかなとアツく語っていました。
そんな話を聞くと私もまた行きたいなぁと思ってしまいます。

京劇ドリームボールは父が生まれた頃よりも前からあり歴史があったのですが私が中学生の頃にホテルに建て替えるために営業を終えあっという間に解体されたのでした。
私の祖父母が父を連れて遊びに行っていたくらいなので歴史がありました。
もともと父が国内旅行のたびに地方でボーリング場を見つけては数ゲーム記念にプレイしてくる事が学生時代からあったらしいのですが、途中からはボーリング場が内包するレトロ感であったりどことなく西洋的な煌びやかさに母も惹かれ夫婦で楽しんでいました。
ラジオDJで有名な伊集院光氏が地方のバッティングセンターを巡られる事を趣味にしているのに似ていますね。

父と母でアメリカを旅行した際に母がボーリング場で撮ったブレブレの写真が不思議と油彩画のようなリッチな発色でフィルムに写りその写真が賞を頂いた事がありそれが母の好奇心とやる気を加速させていました。
ピンボケでブレた写真でも賞がとれるもんなのかと当時は不思議でしたが、この歳になり、なるほど写真の良し悪しはジャスピンでかっちりしたものばかりでもなく色々な解釈で持って楽しむものなのだなと思うようにもなりました。
母は人生で長い間、本当に小さな頃から写真を趣味としてきたのですが実は賞を取った事がなくその時のボーリング場の写真で受賞した事が本当に嬉しかったようです。

今日はアルバイト先に私の大好きな書店員さんがコーヒーを飲みにきてくださっていました。
一太郎さんとサラリーマン金太郎という漫画とゴルゴ13の話で盛り上がっていました。
サラリーマン金太郎という漫画は25年ほど前に連載が始まった漫画なのですが2019年の今読み返してみると今話題によく上がるIR構想に近い事が書かれていたりゴルゴ13と共通して時代を先読みしている要素があって興味深いのだそうです。
お話を伺っているとゴルゴ13などは国際政治学の教授陣や最新技術の研究者の方達と交流がありかなり調査に時間をかけてシナリオを作っているのだそうです。
こういう話を聞くと痺れるものがあります。
漫画などで会社名が初芝であったり四菱ともじられながら批判されていたり、うまいことミスリードさせつつ社会情勢や政治批判がされているエスプリが効いた作品の痛快さに時々触れたくなる事があります。
幸運なことに作家の方や芸術家の方達からお話を伺える機会が時々あるのですが、直接的で即効性のある表現であったりエンターテインメント性の高い作品が増え、その趨勢はポリティカルアートなどの分野にも及んでいるそうです。
決して上から目線で芸術たるもの崇高であれと言っているのではなく、より効果的に風刺を効かせる手段もあるのでは無いかと私も常々感じていました。
それは時代が変わって淘汰されるものであってはいけません。
普遍性も兼ね備え、同時にその時代でしかできない、その時代に全力を注いだ勢いであったり熱量を内包していて欲しいと私は作品に求めてしまいます。
そして普遍性を兼ね備えていない大きな爆発力と影響力を持った作品であるのであれば、その瞬間に最大の光を発し燃えるべきなのです、事後に騒ぎ立てその作品の価値を上下させるような事があってはいけません、陳腐化してしまうだけです。
そしてそれを再現しようと再構築するのもダメです。
燃えてしまった花火を再び打ちあげることはできません、似ていても異なるものです、最初の体験とは異なるものになります。

国を分断する壁があったとしましょう、そこに宗教対立人種対立、様々な理由がありいただきのようにそびえ立つ壁があるのであればそれを支持体に絵を描く作家も生まれる事でしょう。
でもその作品が輝くのは平和が訪れその壁が打ち壊された時でもあると言えます、作品の死と同時に作品の価値が高まるのでは無いかと私は考えています。
絵の価値を損ねないために壁を壊すのをためらい平和が遠のくのは本末転倒です。

自己矛盾してしまいますが、芸術作品の製作過程においてその原動力が愛であったり怒りであったりする作品に対し私は時々慢侮心を持つ事があります。
作家の方が怒りや愛で作品を作るのは結構なのですが、その向こうの事を見据え人と共有して欲しいと私は思うのです。
何時間、何日、いや何千年と続く怒りもあるでしょう、けれど怒りの矛先が無くなった時、もしくは自分が向けていたのと同量の怒りが自分に向けられるようになることもあるでしょう、その時にも変わらぬ光を発する事ができる作品が本物なのでは無いでしょうか。
怒りも愛も人に向ける事ができますし、人から向けられることも同じだけあると思うのです。

うめこ


今日の一枚

2013-03-15

2013-03-15


今日の一曲

青葉市子 – 月の丘 @ 全感覚祭2018

青葉市子 – 月の丘 @ 全感覚祭2018


今日の一冊

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